NONFIX(9/13)

「介護・シリーズ 理想の介護を目指して〜認知症特別養護老人ホーム〜」
やっぱり許せない。違和感を感じる。介護者が利用者に対して敬語を使わない件についてである。
私は福祉科に通う頃からずっとそのことに関して論争していた。色々な人の考えを聞いて、もちろん実際に働いている職員の意見も聞いたけど、私の結論はあくまでも絶対に敬語で接するべきだということ。もちろん話の状況に応じて、いわゆるフレンドリーにコミュニケーションを取ることは大事である。でも、それはあくまでも話の軸になる基本的なところではきちんと敬語を使うという条件の元で成り立つと思う。自分よりも絶対的に年齢が上の方に対してタメ口を利くなんて、普通に考えてあり得ることだろうか。あり得て良いのだろうか。
特養で実習していたときのこと、その職員は敬語とタメ口を半々ほどの割合で使っていた職員だったが、意見を求めたことがある。
「学校では利用者に敬語で接するのが当たり前と指導されていますが、実際は状況に応じて臨機応変に喋り方が変化しますよね?この件についてどのような意見をお持ちですか?」
その職員は「信頼関係の問題だと思う。要はこの特養という場所をその方の家庭と捉えるか、あくまでも施設と捉えるかの問題である」と言った。「仲良くなれば、それなりにフレンドリーな会話になるのは当たり前のことでしょう?」とも言った。
しかし、私はその回答に疑問を持った。それは態度や介護の質で示すものではないのか。家庭のように安らげる空間を作ることは当たり前のことである。利用者にとってはこの場が自分の自宅・家庭であり、ベッドは自分だけの落ち着ける空間であるべきなのだ。しかしながら、それは、タメ口を介して‘ここがあなたの家庭的な場所なのですよ’と示すこととは繋がらない。そんなの間違っている。
敬語を使わず、やたらタメ口ばかりで話しかけるのは単にその方を下に見ているとしか私には考えられない。心のどこかに自分の立場のほうが上なんだという考えが絶対にあるはずなのだ。きっとみんな否定をするだろう。でも、そんなのは通用しない。本当に敬っているのなら、平気でタメ口が出てくるなんてことあり得ないと思うのだ。
視点を変えて考えてみる。例えば目の前に90歳の老人が二人いるとする。前者は重度の認知症で、介護度も要介護4であり施設に入所している。後者は認知症もなく身体的にも自立しており自宅で生活している。人はおそらく後者の老人に対して会話をする際には必ず敬語で接するはずである。それはコミュニケーションを取る上でまったく弊害がないし、身体的にもこちらが介助をする必要がないからである。タメ口を使うとしたらまず前者である。これが問題なのだ。誰に対してもタメ口を利くような人なら分かる。若い子でそういう類の子は山ほどいる。敬語の使い方を知らないって類だ。だけど、普段はきちんと目上の方や初めて会った方、親戚などに対して正しい敬語を使えるであろう人物が認知症の利用者に対してだけタメ口になるということが問題だと思うのだ。
実習中に私が見た職員で、彼が利用者に対してほんの少しでもタメ口を使うといった場面を一切見受けられなかったというケースがある。私は、とても素敵だなと思って彼の仕事ぶりを見ていた。そして、彼に同様の質問をした。彼の答えは意表をつくものであり、実に納得のできるものだった。
「僕が徹底的に敬語を使う理由は、第一に利用者は絶対的に自分よりも年上で人生経験が豊富であり、敬うべき存在であるということ。そして、第二にその利用者の家族が見て不快なことは絶対にしないということ」と言った。私はその意見を聞いて、自分自身の多少揺れていた意見がスパッと明らかになったような気がして嬉しかった。
想像してみる。自分の祖父が祖母が、はたまた父が母が。いくら介護をしてもらって有難いとはいえ、タメ口で話しかけられている。
「○○さーん、ご飯だよー」
「○○さん、歯磨きしようかー?ね?え〜、嫌だぁ?なんで嫌なの?歯磨きしようよ」
「じゃあ、向こうでレクやってるから行こうか?ねー?行こうねー」
嫌だ。結構ショックである。いくら認知症がひどくても、いくら話しかけて反応がなくっても、自分を育ててくれた人が若造にこんな風に話しかけられているのを見るのは辛い。実に惨めだ。
やっぱりタメ口は良くない。まるで、幼稚園児に話しかけるかのような口調。失礼極まりないと思う。というか、家族からしたら単純に不愉快。要はそういう単純なことでしょう。これは例えその方に身寄りがなくとも、誰も面会に来なくても同じこと。その方にはその方の歩んできた人生があって、様々なことを経験して現在に至っている。それは誰にでも共通することだ。介護者はそういった背景を決して忘れてはならない。今の一瞬だけを見て判断するのは簡単である。だけど、その方が今まで一体どんな人生を歩んできたか。どのように生きてきたか。そんなことを少しでも考えられたら、とてもじゃないけど簡単にタメ口なんか使えないんじゃないかと思う。
介護従事者はみなさんそれぞれに自分の意見だとかポリシーを持っていると思う。だから、私のこの意見に同意できない人もたくさんいるだろう。でも、これが私のポリシーだから、それはそれで良い。あとはもう自分自身の信念を貫いてやっていくしかないと思う。みんな悩みながら、模索しながら、自分の仕事と向き合っているんだろうな。
ここで「白い巨塔」の里見脩二の印象深いセリフを思い出す。
「君(財前)が割り切ることで医者であり続けるなら、俺は悩むという一点で医者でいられるのかもしれん」
味わい深いセリフだと思う。悩むことをやめたら、その時点でもう自分の仕事の限界を認めることになる。答えが見つからないからこそ、この仕事を続けられるとも言える。
そこで大河内教授の出番ですよ(笑)場面は違うけど。
「君(里見)の苦悩を、私は支持するよ」
あー良いねぇ、大河内教授!!
話が完全に「白い巨塔」に脱線してしまいましたが、まぁ、そういうことです。人と直接的に交わる仕事っていうのは苦悩が多いんですよね。だけど、考えるのをやめられない。私も早く現場で働きたいです。